神楽坂祭りの一つの目玉。浴衣の神楽坂ガイド(ボランティア)さんが、神楽坂の裏通りを歴史的なお話も含め無料で小一時間案内してくれる、浴衣でコンシェルジェ。毘沙門天(
地図)発で18:30ぐらいから。10人ぐらいずつ集まるごとに、何人かいるガイドさんの一人が随時出発してくれる。浴衣を着ての参加者には、ほおずきの縁取りの中に入れてもらえる無料写真撮影サービスや(浴衣じゃない人も100円で撮ってもらえる)、浴衣を自分で着られない人には、浴衣を持参すれば無料着付けサービスも。
神楽坂初心者にとっては、結構分かりにくく、同じところをぐるぐるまわってしまったり、全部巡ったつもりでもかなり取りこぼしたりする感がある神楽坂の路地を案内してくれるのでとても嬉しい企画でしょう。神楽坂上級者にとっても、目に見えるものだけではなく、以前ここに何かあったかなどを説明してくれるので、いつも何気なく通る道により深みを感じられるきっかけにもなるだろう。私たちと一緒のグループの奥様は、神楽坂在住でもちろん神楽坂のことは熟知していても、「基本は同じでも、ガイドさんによって話の膨らませ方が違って面白いので、毎年参加してるのよ」とおっしゃっていた。ちなみに今回のコースは
こちら。0m地点から1.3km地点までの、約1.3キロのお散歩道。
ここの路地など、一見ただの道だけど、その昔妾宅がひしめいていた「お妾横町」と言われていたところらしい。芸者さんがリタイアすると、3種類の道があるらしい。1:後輩を育成する。2:料亭などを開く。3:旦那に嫁ぐ(お妾になる)。その3番の人たちが旦那様に住まわせてもらっていた路地らしい。「ここはショウタクがあったところで」と言われても、ショウタク??と思ってしまった私だが、私たちのグループの参加者は年配の人が多く、結構みんな一発で分かったみたいだ。私は隣の人に教えてもらってやっと「妾宅」だと分かった次第。年配の人々のブレーンに脱帽。このツアーはさすが神楽坂を知り尽くしたガイドさんで、花柳界用語がバシバシと出て来て興味津々。
毘沙門天の裏手方面によく見るとちょっと高めの石垣があるんだけど、それは牛込城があったところらしい(現光照寺:
地図)。牛込城というものがあったことすらしらなかったのでちょっと感動。確かに良く見ると所々に同じ高さの石垣が残って入る。でもここは坂の上の地形で、しかもそこからさらに石垣をつくって高くしてあったので、江戸城内が丸見えだったらしく、江戸城を見下ろすとは何事!ということで、取り壊されてしまったらしい。
神楽坂は、お囃子(おはやし)が聞こえる坂ということでその名がついたらしいのだが、そのお囃子がどこから聞こえたものだったのかという議論は未だについていないらしい。色々な文献をひもといて行くと、一番古いところで若宮八幡神社(
地図)から聞こえたという記述があるらしく、ここのことではないか、というのが最有力説ということです。
今でも芸の稽古場になっている昔の見番(
地図)。見番とは芸者さんの事務的なことを管轄していたり、稽古場などがついているところらしい。神楽坂の芸者さんはその昔全盛期では650人ぐらい。今となっては登録している人だけで35〜6人で、実際活動しているのは20人ぐらいらしいです。以前、芸者遊びというのは、三業といって、1:待合い(スペース提供)2:割烹(料理提供)3:置屋(芸者提供)で成り立っていて、男達はまず待合いに行き、そこから、割烹と置屋にそれぞれサービスを注文するシステムだったんだそうです。芸者さんがいるところに行けば、ワンストップサービスみたいに全部そろっている訳じゃないのがまた粋なんですな〜。ちなみに今でも花柳界への面接を
ここでしてくれるそうですよ(35歳まで)。
揚場町の当たりに移動。揚場町というのは、軽子坂(
地図)のスタバがある通り、というと現代人にはわかりやすいかも?この辺は、この軽子坂の真下ぐらいに位置する外堀に船がとまり、この辺への流通の要所となっていたらしい。今は、ちょっと西側のカナルカフェにボートがとまっていたりするが、当時はあの辺には船はとまっておらず、こっち側だったらしい。軽子坂という名前も、船から船荷をおろして町へ運ぶ人たちを「軽子」と言ったらしく、そこからついたという。軽子坂と本田横町が交わるところの、本田横町の反対側の道を三年坂(
地図)というらしい。「いろいろなものが宿っているところといわれ、転ぶと3年以内に死ぬという言い伝えがあったらしいです。でも、転んだらここの土を3回なめると大丈夫とも言われていました(いまはコンクリートだけど)」とガイドさんがおっしゃっていた。参加者のおじさまが「そうかぁ〜。オレ、もうそろそろそんなに生きなくてもいいかなと思うので、ちょいと転んでみようか!?」とジョークを言ってみんな爆笑。そのもっと上を行ったところが「鎌倉歩道」と言われているらしく、神楽坂通りなんかよりずっと古い、戦国時代の国府道だったらしい。
文豪達が愛したことで有名な旅館若菜へ続く道、兵庫横町(
地図)が、牛込城半径100mの城下町圏内の入り口ということで、ここからすべての物品が城内に入っていったらしい。神楽坂の裏通りと言われているところは大体城下町だったところで、だからこそ敵が攻めにくいように、入り組んでいたり狭くしてあったりするという。
寺内公園(
地図)のあたりと赤城神社(
地図)の当たりに、岡場所というのがあったらしい。岡という江戸言葉は、よそものとかみとめられていないものとかいうことで、「おかっぴき」とか「おかめはちもく」なんていう言葉もここから。で、岡場所というのは要するに非公認の遊郭だった模様。江戸の町というのは、参勤交代や建設現場などの仕事場が多かったため、男の町と化して行き、1721年の調査では、男10人に対し、女3.5人という有様だったらしい。なので幕府としてもどうしても遊郭をこしらえなければならない状態になり、吉原をつくったらしいのだけど、こんなもんでは焼け石に水、ということで、あちこちに岡場所ができていったらしいです。でも岡場所は非公認な為、吉原の利用料が10両だったら、寺内公園あたりのは1/4両、赤城神社の方はさらに安かったらしく、相当な値段の差があったということです。私も、映画「
吉原炎上」を見たことがあるんだけど、吉原のまわりにも沢山遊郭があったように思ったんだけど、あれが岡場所だったのかなぁ。
なお、牛込消防署あたりは縄文弥生土器なんかも発掘されているらしく、さらに古い歴史があるといわれているそうです。
50分ぐらいのツアーは本当に楽しくあっという間でした。私たちのグループをガイドしてくれたのは山口さんというおじさまで、お肌つやつやで、褐色の浴衣と褐色にほんのり染めた髪が見事にマッチした、さすが粋な方でした。知識も本当に豊富で、もっと年配の参加者もみなさんご満足されたようでした。私も脳がついて行った分だけここに書いたのですが、本当はもっと盛りだくさんでした。たったこれだけの時間に沢山教えていただいて、とても充実した勉強になり、ほんと感謝です!
ちなみに、神楽坂を普通の浴衣で歩くだけでは物足りない!という方には、神楽坂オリジナル浴衣があります。身も心も?神楽坂にどっぷりつかって神楽坂を闊歩してみるのも粋ですね。この浴衣はほおずき市の時にはほおずきが完売すると同じ出店の場所に出現していましたが、通常は
助六さんがご好意で取り扱っているので、そちらで購入できるようです(これを売っても助六さんには一円も入らず、神楽坂のイベントの資金などになるようです)。
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